季節のメッセージ
「今こそ眠りから覚める時」―クリスマスの準備として、
待降節とは、「やって来る」という意味です。約二千年前にこの世に平和が訪れました。
しかし、まだ完全にやって来たわけではありません。やって来たといっても、これから起こり得ることが、少しだけ見えているに過ぎません。
古い契約が果たされた今、新しい契約と待望が生まれました。ですから私たちは再び、イザヤと共に夢を見るのです。
バラバラになってしまった人々を神が完全なものにしてくれることを夢見るのです。
一体それはいつなのでしょう?どのくらい待てばよいのでしょう?その日はいつ訪れるのでしょう?
それは分かりません。ただ望みをもって、今か今かと待つだけです。
今日を生きる私たちは、神がすでに示して下さったもの、神が約束して下さったものを見て生きています。
そして私たちは神が来てくださることを叫び求めます。一度来てくださったのですから、きっとまた来てくださいます。
お出でになる時、私たちは神をお迎えする仕度が出来上がっていないといけません。
パウロは、今こそ「眠りから覚める時」であると言っています。
待降節は、暗闇の行いをすべて拭い去り、光の鎧を身に付ける、つまり主イエスキリストを身に纏う時なのです。
私たちはこれまでの何度もがっかりするような経験のために、今頂いているお恵みにも、
ほんの僅かな望みにも、どんな光にも、目を向けることができないかもしれません。
この待降節において、人々が一体となるために、橋渡しとなるために、私は自分を捧げることができるだろうか?
家族、共同体、世界が苦しむ傷を本当に癒し、和解に導くためには、たくさんの準備が必要になることでしょう。
どんな準備が必要なのでしょうか?それは、暗闇の中に光を差し入れることです。
もっと具体的な話をしましょう。例えば、この待降節の機会に、普段自分のことをイライラさせる夫または妻に対して愛を示し続けることができるでしょうか?
この待降節の機会に、子どものまま大人になったような自分の子ども、何度もガッカリさせられた子ども、
何度も自分の物差しで判断し、傷つけてしまった自分の子どもに対して、手を差し伸べることができるでしょうか?
傷つけあう人々の間に立って、受けた傷を思い出させることも、互いを責めさせることもなく、
両者の架け橋となるためには、どんな良い心で、どんな愛の行為を行い、どこまで広い心を持てるでしょうか?
最近、何かのことで意見が食い違ったために争った友人や隣人、教会メンバーはいませんか?
そういう相手とコーヒーやお茶をするなどして一緒に時間を過ごし「私たちは考え方が違うけれど、それでも友達だね」と言って、
この待降節を本当に意味のあるものにできるでしょうか?
待降節とは、神が私たちのところに来られるから準備しよう!という時ではありません。
私たち自身を救うための時でもありません。神はもう私たちと共におり、私の中に住まわれていることに気付く時です。
私たちのすべきことは、心の中におられる神を感じることです。
この素晴らしい季節は、私たち自身の弱さを認めると同時に、
神がどれだけ―私たちがどれだけ躓いたとしても―私たちを深く愛しておられるかを悟るための季節です。
人間というものは、そこまで見返りを求めず、そこまで深く、愛したりしないものですから、神の愛など信じられないかも知れません。
それでもイザヤの時代から私たちは「光の中を歩きなさい」と求められています。
さあ、共に望みをもって祈りましょう、「主イエスよ、来てください。私たちはあなたの来られるのを待ち望んでいます。
ああ主よ、来てください」。
神は私たちと同じ人間の形となり、私たちを聖なるものにするために、完全に人間となられたのです。
私たちは今こそ、真に「人間らしく」なることによって私たちの人間性を確認し、私たちの中の神性を輝かせるのです。
これは難しいことです。常に戦い努力を続けなくてはなりません。自分を無にし、自分を犠牲にして自分を捧げなくてはなりません。
しかしそれによって私たちは、本当の家庭、真の家族を築くことができるのです。
クリスマスは、私たちが一つであること、平和と愛と友情の真の絆を味わう時なのです。
みなさまにとって喜びに満ちた、意味のあるクリスマスとなりますように
高宮教会 主任
ヴィンセント・プラヴィン・クマル神父